
江戸の世と移り、里見公が鳥取の倉吉へと改易され御朱印地75石と減高されたものの、
それでもなお多い寺領を徳川家より保護されていました。
その理由は紀州徳川家からの庇護があった為だと云われております。
江戸時代は徳川家の祈願寺として保護されました。
現在も徳川家より奉納されたと云う大般若経典六百巻が寺宝として伝わっています。
その後は、明治の時代まで聖方(高野聖)の寺院として活動していました。
明治28年(1895)、上総国の前羽覺忍師と云う老尼僧が来山され
「私は弘法大師を信心し、
四国八十八ヶ所霊場を遠くの地でも礼拝できる場を作りたいと願い全国を廻っています。
夢で安房に霊山があるとのお告げを受け、来てみると夢で見た場所にそっくりだったのです。
どうぞここに霊場を…。」
と当山住職に懇願し、
一山全体に四国霊場を遷した「安房高野山八十八ヶ所霊場」が開基されました。
石工作りの大師尊象が一体一体名工の手を借り、
高野山住職の開眼法要を受けて、約二年の歳月をかけてご奉納されました。
この中には、彫仏師初代後藤利兵衛義光や楠見の石工俵光石の作品もあり、
境内には古い石灯篭の磁石や宝篋印塔の一部があります。




大正12年の関東大震災にて本堂、薬師堂が倒壊しましたが檀信徒の協力のお陰ですぐに桜の名所として親しまれる寺に復興されました。
戦前までは桜の寺として知られ、
民謡 「館山小唄」 でも(春は妙音院、花どころ…)と歌われていました。

時代が進み昭和初期…
太平洋戦争東京大空襲の後、
館山の地にも焼夷弾が投下され、米軍の落とした一発が当院に着弾したのでした。
その時本堂、庫裡、諸堂や桜など焼失し、唯一焼け残ったのが現鐘楼堂、山門です。
現在もなお焼け焦げた鐘楼堂が、その当時の様子を物語っています。

不思議な話…
当院の歴史を振り返ると、数々の戦災害を受けながら死者は勿論のこと、負傷者も出なかったそうです。
身代わりお不動様が難を変わって下さった為、だと言い伝わっております。
自身の身を呈して人々の幸せを願う不動尊。その父のような力強さが現在も尚、私たちの心の支えになっているのです。

身替大師(身代大師)…
当院に伝わる身替大師様は少し変わっています。
何か異形のお大師様。モヒカン(失礼)に見えますが、実は私達の幸せのため日夜修行に励まれる修行大師様です。
別名サバ大師とも呼ばれ、手には鯖が握られております。願掛けし願いが叶うと鯖をお礼に供えたそうで、
昔は沢山の鯖がお供えされ…とても匂った!?(笑)と伝わる、大変霊験あらたかなお大師様なのです。

修験道の開祖…
神変大菩薩の尊像が山頂(奥院)に安置されています。
平成十一年五月吉祥日安房修験復興を祈念し
二實修験道総本部 金剛山真勝寺様より 再建御奉納頂きました。
日本山岳宗教の開祖、神変大菩薩(役小角えんのおずぬ)
今も日本各地で役行者(えんのぎょうじゃ)にまつわる伝説が多く残されています。
大峰山・高野山両霊峰遥拝所…
当山の役行者様にお参りしていただくと、吉野の大峰山・紀州高野山を遥拝出来るようになっております。
(妙音院~洲崎神社~大峰山~高野山は一直線上に並んでいるのです。)
ぜひお参り下さい。